シャドバWBの「エスペランサ編」の感想を語っていきます。本当に素晴らしいストーリーでした。
イヴマリーの神の力

作中の時系列に沿って、イヴマリーの話から整理していきます。旧シャドバの世界観を引き継ぐ設定になっていましたが、知らなくても全く問題ないように作られていました。
旧シャドバの「運命相克編」「時空流転編」の舞台となるレヴィールという世界には、この世界を作った神様から分け与えられた3つの力がありました。神の力を宿した人間はタイタンと呼ばれ、この世界を支配しています。
タイタンの力は人から人へ受け継がれます。ヴィンセントが持っていた能力が受け継がれた先がイヴマリーでした。魔力を込めた言霊で命令することで、対象を思い通りに操る能力です。イヴマリーは幼いエスペランサを助ける際にこの権能を使っていました。教会の大人に「眠れ」や「倒れろ」と命じていたあのシーンです。
イヴマリーによると、レヴィールは神の力を奪って暴れた化け物によって滅ぼされてしまったそうです。「時空流転編」のラストからどのぐらいの時間が経過したのかは不明です。
世界が滅ぶ寸前、イヴマリーは「生きたい」と口にしました。これが彼女自身に作用し、エスペランサたちの世界に飛ばされてきました。神の力を持っているにもかかわらず、世界を救えずに逃げたという罪悪感に苛まれており、イヴマリーはかなり自嘲的に語っていました。
「死」のない世界

続いてエスペランサの世界のお話です。イヴマリーは別世界の住人であり、この世界にはこの世界なりの問題を抱えていました。
人々は苦難に満ちたこの世界を憂い、神様に苦しみをなくしてほしいと祈りました。神は願いを聞き入れ、「生」を司る禁足の神と、「死」を司る御手の神に分裂したあと、御手の神を封印しました。
これによりこの世界からは「死」という概念そのものがなくなってしまいました。お墓など死にまつわる全てのものが見えなくなることに加え、自分たちの命に終わりがあることさえ認識できなくなります。物理的に命の終わりは来るので、亡くなった人はその瞬間から存在がなかったことになり、永久に忘れ去られるようになりました。一番苦しいものを消してもらった結果、人間は幸せになれたのでしょうか。
イヴマリーはこの世界に飛ばされたあと、エスペランサと出会い、かけがえのない友情を育みました。しかしレヴィールでダメージを負っていた彼女は、エスペランサが幼いうちに亡くなります。エスペランサも当然「死」を知らなかったのですが、イヴマリーによって世界の理を垣間見ました。
イヴマリーは亡くなる際に、エスペランサに2つの言葉をかけます。「イヴマリーという人間のことを忘れないで」と「この世界の新たな神となれ」です。エスペランサはたった1人で、この重すぎる言霊を背負って生きていきました。
イヴマリーを忘れないようにするため、エスペランサの頭の中には幻想のイヴマリーがいます。イヴマリーの話し方を忘れないようにするため、エスペランサ自身が同じ話し方をするようになりました。この世界の魔力を吸うと神様が定めた「死」のない世界に取り込まれてしまうため、マスクをつけるようになりました。
エスペランサはイヴマリーと再び出会うため、果てしない計画を立てます。教皇ミラリアが禁足の神を呼び出さねばならない状況を作り出すこと。御手の神を呼び出し、禁足の神の力を奪うこと。2柱の神を合体させ、エスペランサ自身がこの世界の新たな神となること。そして最後に、「死」が再び戻ってきた世界で、神の器たるイヴマリーが輪廻して再び現れるのを待つこと。
エスペランサは異端のリーダーであるヴェルモットを踏み台にして、この世界の新たなる神となりました。あとは輪廻を待つだけ。イヴマリーの隣に立つにふさわしい神となるため、彼女は狼の宴の誘いを受けました。勝利して願いを叶えることができるなら、イヴマリーをそのまま復活させてしまうつもりなのかもしれないですね。
「し」のない世界
エスペランサ編の非常に面白いトリックが、御手の神の封印によって世界から「し」の音も消えてしまったことです。リポグラムという小説の技法で、特定の文字や語をあえて使用せずに文を書き上げる遊びです。物語的な整合性は特にないものの、「し」「じ」の音を一切使わずにすべての文章が構成されています。
破綻のないように文章を完成させつつも、あえて変な言葉を使うことで違和感を作るというバランスがとても上手でした。例えば下記は冒頭のシーンなのですが、「苦(にが)くて痛い」なのですよね。普通なら「苦(くる)しくて痛い」のはずなので、もっと別の表現に逃げることもできるのに。この時点であえて違和感を作りにきているのがすごいです。

度々出てくるのが「刻限」という言葉。「時間」が使えないため言い換えで使われていたのですが、教皇ミラリアが非常に時間に厳格な存在というキャラ設定を使うことで、上手くカモフラージュされていました。
また「足」が使えないのも面白いところ。ストーリー中で繰り返し描写されるお祈りの作法で、あえて「踵」や「つま先」を連呼するのは、まるで読者を挑発しているかのようでした。「足跡」にわざわざ「そくせき」とルビを振っていたのも、ネタ晴らしを受けたあとからするとヒントだったのだなと。

世界の中の出来事ではないのに、「章」を使っていないこともヒントの1つだったと思われます。徹底していますね。


そしてこの「し」抜きをなぜやっていたかというのが、「愛している」を言えなかったという一点に結実してくるのが凄まじいなと思いました。エスペランサはたった1人の女の子のためにすべてを犠牲にして神になったわけですが、脚本家も「愛している」がやりたいがためにすべての苦痛を背負ったような気がして、その狂気を浴びるのが本当に気持ち良いわけです。

旧シャドバの頃からストーリーは面白くて大好きでしたが、ビヨンドは一段高いレベルのものをお出しされるので毎回本当に楽しみです。ラヴサインとマリア=マリスが終われば、ついに狼の宴に突入する形になるでしょうか。







































































































